映画『プーと大人になった僕』感想 大人になるって切ない、今そんな鬱憤を晴らそうじゃないか!
『プーと大人になった僕』を観てきた感想です。
今回はちょっとまとめるのに苦労しました。
画像引用元:プーと大人になった僕 : 場面カット - 映画.com
公式HP:
観たいと思った理由
友人の勧め
勧めてくれた友人のオススメポイントとしては、
・『トイストーリー3』を思い出す作り
・娘がいるなら刺さる物語
という2点が自分にとっての興味を惹きました。
鑑賞した劇場
新宿ピカデリー
スクリーン1(全580席:席数最大、スクリーンサイズ最大)
9月23日日曜日の13:35の回で観ました。
3連休の中日でしたね。
客入り
公開2週目でしたが、9割がた埋まっていたように思います。
老若男女、一人、カップル、夫婦、友人、幅広くいましたね。
ディズニーの割に中学生以下の子供は少なかったような。
あらすじ
少年クリストファー・ロビンが、“100エーカーの森”に住む親友のくまのプーや仲間たちと別れてから長い年月が経った──
大人になったクリストファー・ロビンは、妻のイヴリンと娘のマデリンと共にロンドンで暮らし、 仕事中心の忙しい毎日を送っていた。ある日クリストファー・ロビンは、家族と実家で過ごす予定にしていた週末に、仕事を任されてしまう。会社から託された難題と家族の問題に悩むクリストファー・ロビン。そんな折、彼の前にかつての親友プーが現れる。
プーに「森の仲間たちが見つからない、一緒に探してほしいんだ」と頼まれたクリストファー・ロビンは、子供の頃プーたちと過ごした“100エーカーの森”へ。何一つ変わらないプーやピグレット、ティガー、イーヨー、カンガとルーの親子。仲間たちとの再会に喜びと懐かしい日々を感じながらも、仕事に戻らなければならないことを思い出す。「仕事って、ぼくの赤い風船より大事なの?」と、悲しむプーたち。急いでロンドンに戻ったクリストファー・ロビンは、森に会議の重要な書類を忘れてしまう……。
一方、クリストファー・ロビンの忘れものに気づいたプーと仲間たちは、マデリンの助けを借り、親友のため、初めて“100エーカーの森”を飛び出し、ロンドンへと向かう。クリストファー・ロビンが忘れてしまった、本当に「大切なモノ」を届けるために──(引用元:作品情報|プーと大人になった僕|ディズニー公式)
予告編
切なさ溜めて溜めて、ドーン!な話
切なさの解放に感動する
親友プーさんとの奇跡の再会によって、クリストファー・ロビンが、忘れてしまった「本当に大切なモノ」を思い出す感動のドラマ。
イントロダクションより抜粋)
上記にもある通り、感動のドラマと銘打たれた本作ですが、いかがだったでしょうか。私は、切なさを解放する展開に感動しました。
今作で感じる切なさは、抑圧の要素が強く、その分解放された時が気持ち良いです。私も抑圧が解放された時の「収まるところに収まった」感に感動させられたのだと考えています。
切なさの正体
上記で言う、切なさの正体はなんでしょうか。
それは、クリストファー・ロビンが大人になってしまっていることです。
正確に言うと、イントロダクションにある通り、大人になったことで「本当に大切なモノ」を忘れてしまっていることです。
切なさの積み重ね=溜め
本作は中盤まで、切なさを溜めに溜める演出をしています。
例えば、娘のマデリンに読書をしてあげるシーンでは、本当に読んでほしい本をわかっていない=マデリンの気持ちに気が付けないことで、娘との関係性がうまくいっていないことを示しています。大人になった今、子供心がわからなくなってしまうことに切なさを感じます。
他のシーンでも、現実世界に現れたプーさんを大人しくさせようとする発言に「人と違うこと」を良しとしない姿勢なんかも、あまり良くない意味で「大人になっちゃったんだな」と感じさせられます。
こうして、クリストファー・ロビンが大人になったことで何かを失ったことをしっかり観客に意識させる描写を繰り返し、切なさを溜めていきます。この溜めが抑圧になり、物語の帰結に解放の感動が生まれるのですね。
クリストファー・ロビンも私も迷子
キャラクター造形としての観点から言うと、クリストファー・ロビンは今の私に通じるところがあったりもしました。
「本当に大切なモノ」を忘れているクリストファー・ロビンは、人生の目的を見失っているとも言えます。
この人生迷子感に自信を投影してしまって、先述の切なさに加えてより一層胸が痛くなりました。
クリストファー・ロビンが失ったモノ
クリストファー・ロビンが失ったものはなんでしょうか。
私はその一つとして、子供時代の純粋さ(イノセンス)だと感じました。
何をするにもシンプルだった頃と違って、世の中に生きるということは複雑すぎる。そして道を見失い、上記のように人生迷子になっていったのでしょう。
イノセンスを失ったことの切なさは、本家の『くまのプーさん』を観ていると更に感じることができます。
本家では「何もしない」物語が語られ、最後に成長痛としての物悲しさがいい味を出してました。成長することは喜ばしいことだけではないということを教えてくれるこのエンディングがあることで、幼きクリストファー・ロビンに「人生大変なこともあるだろうけど頑張れ!」とエールを送りたくなるような思いになるのでした。
ところが、『プーと大人になった僕』では人生に対してくじけそうになっているクリストファー・ロビンがいるもんですから、より切ないわけです。
私はイノセンスを失ったことによって、クリストファー・ロビンは「本当に大切なモノ」を忘れてしまったように思えました。
本作を見て考えたことですが、心の声を聞くための方法とでもいいますか、大切なものを忘れないために目を曇らせないようにするのがイノセンスの役割だと思っています。
観客の願いが叶う瞬間の感動
物語上では、様々な切なさはやがて、父に愛してほしい娘とそれに応えられない父という構造に集約されていきます。
この歯がゆい構造が解消される時こそ、これまで溜めた切なさが一気に解放され、観客に感動をもたらす場面です。
クリストファー・ロビンが取り返す「本当に大切なモノ」は愛する家族との時間でした。
溜めた思いが解放される瞬間の感動は、観客の「こうなってほしい」という思いが叶った瞬間だからこそと言えます。
プーの発言にみる変化の本質
「そうは言っても、家族のために仕事してるんだよ」という気分もあるにはあるんですが、そんな時こそプーの言葉を思い出したいなと思います。
僕は前に進むとき
それまでいた場所を離れる
この言葉って変化の本質だと思うんですよね。
このままではいけないと思う時には、それまでいた場所=現状から離れないといけない。
せっかくこの物語を見たのなら何か変化を起こそうという心持ちです。
何かをするために必要なのが準備としてのプーさんの言う「何もしない」時間なんだろうなと思いますしね。
本家との比較
今作は切なさを溜めて解放するという構造的に、切なさを感じ取れる大人の観客に全振りしているところがあります。
本家が、可愛らしいキャラクターの話で子供が楽しめ、成長痛のエッセンスで大人にも見所があるという意味で全方位向けだったこととは異なる点ですね。
個人的にはマデリン目線の話なら子供でも見れたのかなと思います。
見たい理由に対してどうだったか
『トイストーリー3』っぽさは感じない
「子供はいずれ成長してしまう」このことに向き合った作品が『トイストーリー3』です。子供の《成長》がテーマだったのに対し、成長してしまった《子供》を扱っている本作は少し方向性が違うかなという印象でした。
娘がいるなら刺さるか
殊更声を大にして言うほどでもないですが、まぁわかる。といった感じでしょうか。
自分にとっては娘がいるいないで特に刺さったわけではありませんでした。
気になったところ
プーたちが見える人と見えない人の線引き
プーや100エーカーの森の仲間たちを見ることができるのは、クリストファー・ロビンとマデリンだけで良かったんじゃないかなと思います。
プーと仲間たちが現実世界に現れるという、極めて非現実的な話を単なるフィクションに終わらせないためにも、プーと仲間たちを見ることができるということに特別性があったほうが良かったというのがその理由です。
プーはクリストファー・ロビンにとって唯一無二の存在なわけで、他人には存在し得ないキャラクターのはずです。
プーが存在するのはクリストファー・ロビンの中だけなのですから、彼だけにはプーが見えているという話であれば、現実世界との接合がうまくいっていたように思います。
なぜこのように思ったかというと、マデリンが引っ張り出してきた絵をクリストファー・ロビンが見てからプーが現実世界に現れるという描写があったからです。
この描写からは、クリストファー・ロビンは幼き自分が描いたプーの絵を見たことで、プーの存在を思い出したように見受けられます。
100エーカーの森の仲間たちが見えるようになるのも、仲間たちが描かれている他の絵を見てからなので、余計にそう感じられました。
かつての自分の遊び相手を思い出すという行為が、再びプーと仲間たちを存在させる重要な要素だということです。
そして、父の描いた絵を見ているからこそ、マデリンにもプーと仲間たちが見えるというなら筋が通ります。
しかし、実際には町中の人々がひとりでに話すプーと仲間たちを認識できてしまっている。
この設定の曖昧さが気になりました。
小ネタ集
冒頭の挿絵
本作冒頭の本のページがめくられていく描写で描かれている挿絵は、シェパードによる原作本の挿絵となっています。
ディズニーランドにあるプーさんのハニーハントの美術も、本のページを模したデザインになっていますが、こちらに描かれているのはディズニー版のプーさん。
このような形ではなく、原作本の挿絵を使ったことは、原作へのリスペクトがあるのかもしれませんね。
ズオウとヒイタチ
終盤で振り切れたクリストファー・ロビンが仕事もせず遊んでいる上司に向かって、「お前はズオウだ」みたいなことを言うんですけど、これの意味がわかりにくいなと思います。
本家『くまのプーさん』ではズオウとヒイタチというのはハチミツ泥棒なので、それになぞらえて、部下の苦労や成果を掠め取るずるい奴ということで、上司をこのように呼んだという風に解釈しています。
クリストファー・ロビンの妻、イヴリン
エージェント・カーターですよ。
エージェント・カーターというのは、マーベル・シネマティック・ユニバース(MCU)に出てくるキャプテン・アメリカの1940年代の恋人です。
本作のイヴリン役のヘイリー・アトウェルが演じています。
終盤の走るシーンは姿勢が良すぎて全く主婦感が無いです。やっぱり凄腕エージェントにしか見えなくて笑えました。
『エージェント・カーター』も本作もほぼ同時代の設定なので、ヘイリー・アトウェルは名誉40年代イギリス顔として個人的に認定しています。
最後に
大人になってイノセンスを失ったことの切なさを溜めて、最後に感動させるつくりの話でしたね。
自分に重ねてしまうところもあったということもあり、なんだか頑張っているのに生きるのがツライというときに見返してしまうかもしれません。
本日はこれまで。
それではみなさんご機嫌よう。
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