2時間余りの幸福

わずか2時間で幸せな気持ちにしてくれる「映画」について。

自分にとって映画を観ることの意味を考えてみた

人生を歩む中で気がついたら映画が好きだった。

なぜ好きか、それに向き合う時が来た。

これまでも考えたことがないわけではなかったけど、浅く表層的なところまでしかたどり着けなかったから、頭でわかっても腹落ちしない感じだった。

今回は、自分事としてとても納得感のあるところまで深掘りできたのでここにまとめたい。

 

 

 

 

基本は「楽しい」から「好き」

映画を観るのが好きなのは、楽しいから。

ではどこに楽しみを感じていたのだろう。

私の場合は、美意識を感じることに楽しみを見出している。

この「美意識」という言葉は私の表現なので、どういうことなのか理解してもらうには説明がいると思う。

 

美意識=生き方

私にとっての美意識とは価値判断の拠り所である。

ある人が行動を起こす時、そこにはその人が何を正しいと考えているかが表れる。

この時の決断を下支えしているその人なりの思考を私は美意識と呼んでいる。

美意識とはつまり、その人の振る舞いから見える「生き方」のことである。

 

映画=創作物は美意識の塊

映画は創作物であるから、私が目にする完成品には必ず関わった人が存在する。

作品には監督や脚本家、そういった人々の美意識が詰まっている。

わかりやすいメッセージ性の有無に関わらず、何を良し(あるいは悪)としているかに触れることができる。

さらに劇映画であれば、作中の登場人物の行動にもそのキャラクターの美意識が映し出されている。いい映画であればあるほど、作中の人物造形は分厚く、美意識もより伝わってくる。

美意識に触れられると、その対象の行動原理がわかるので、対象を理解できた気持ちになって私は嬉しくなる。

こうして作品の創作者から登場人物に至るまで、美意識に触れることを通じて、私は映画を観ることに楽しみを覚えている。

 

自己の美意識=感想

ちなみに、当然私にも私の美意識があるが、その作品の美意識について触れる際、私のそれはひとまず脇に置いておく。

創作者なり、登場人物なり、その対象になりきって追体験をすることで、対象が持つ美意識に触れてみる。

共感できなくて良い、理解したいだけなのだ。

個人的に殺人を犯したい気持ちは毛頭ないが、猟奇的殺人者が出てくる話では、その殺人者の気持ちになってみる。

自分の美意識はどこに?と思われるかもしれないが、それは感想となって現れてくる。

感想は自分が体験したものに自分の解釈を加えるという行為なのだから、そこには自ずと自分の美意識が反映される。

 

まとめ

目の前の人や対象を理解できたときに感じる喜びを得るため、そのとっかかりになる美意識に触れることが楽しい。

幸運なことに映画は美意識の塊。

私は映画を観て人の美意識に触れるのも、感想によって自分のそれに触れるのもどちらも楽しいと感じている。

他者理解も自己理解も喜びに溢れている。

だから映画を観ることが楽しくて好きなんだ。

 

なぜ美意識に執着するのか、この辺りはまた別記事にしようかと思う。 

 

本日はこれまで。 

それではみなさんご機嫌よう。

 

 

 

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