映画『ウィー・アー・ユア・フレンズ』感想 「若者よ、音を聞いているか?」〜音で描写する若者の成長譚〜
今回は『ウィー・アー・ユア・フレンズ』の感想です。
本ブログでは、最近ザック・エフロン出演作への言及が続いてまして、今回はそんなザックシリーズ待望のザック・エフロン単独主演作です。
(画像引用元:WE ARE YOUR FRIENDS ウィー・アー・ユア・フレンズ : 場面カット - 映画.com)
公式HPのリンクが別のサイトになってて貼れませんでした。
公式がHP捨てたってことですかね?運用的にイケてない気がするんだけどな。
あらすじ
世界的に盛り上がりを見せるEDM(エレクトロ・ダンス・ミュージック)シーンを題材に、DJとしての成功を目指す若者たちの成長や葛藤を、「ハイスクール・ミュージカル」のザック・エフロン主演で描いた青春ドラマ。DJの青年コールと仲間たちは地元を飛び出して有名になることを夢見ながらも、将来に対して漠然とした不安を抱えていた。そんなある日、コールは心に傷を抱えたカリスマDJジェームズと出会う。コールをかつての自分に重ね合わせたジェームズは熱心に指導するようになるが、夢に向かって歩みはじめたコールと仲間たちの間には溝が生まれてしまう。そんな中、コールはついに大規模なフェスに出演するチャンスをつかむ。しかしその一方で、ジェームズの恋人ソフィーにひかれてしまい……。共演に「ゴーン・ガール」のエミリー・ラタコウスキー、「インターステラー」のウェス・ベントリー。EDMの人気DJたちもカメオ出演している。
予告編
ちょっとナメてたけど良いじゃん!
感想言いにくいと思いきや
正直観ている最中ずっと、感想を言いにくい映画だなと思ってました。
話がつまらないわけじゃないけど、すごく面白いわけじゃない。
絵画と一体化する所の描写とか、夜の遊園地でのデートシーンなんかは、ミュージック・ビデオ調の映像表現で、見ていて楽しいところではあったけど、作品全体の魅力として捉えるには乏しいという感じ。
割と序盤で出てくるところで、EDMのDJがどうやってフロアを盛り上げるかというロジック部分くらいしか、良かったというところがないなぁって感じでした。
ところがね、やっぱり映画はナメた態度で見ちゃいけんよ。終盤で、物語全体を肯定させてくれるような良いところがきちんとありましたよ。
若者の成長譚としてストレートに良い
成長の瞬間の描写
若者が成長するその瞬間を描けているのが良かったんですよ。
具体的な描写としては、「しるし」を見つけるきっかけが、自然音を聞き始めたことで描かれていたことです。
自分の色を出せるか
まず、コールの周囲で鳴っている自然音を取り入れることで、コール自身にしか出せない音楽を作り上げたということが、一つのわかりやすい成長描写になっていますね。
DJの師匠とのやりとりで描かれているように、コールはこれまでは自分の頭の中、脳内で鳴ってる音(しかも借り物)でしか音楽を作っていなかったわけですね。
つまり、自分の憧れとか夢だけで、自分の想像の中のものだけで構築された人生だった。
ところが、周囲の音を聴き始めたことで、自分でしか出せない音を構築できるようになり、そして作成した曲がラストシーンでは、大勢の観衆に認められることになります。
自分の憧れや夢というのは、自らの美学によって規定されています。美学とは、自分はどんな物や状態を「良い」と思うのかということであり、自分のこれまでの経験によって構築されるものです。
自らの過去、いわゆる「自分とは何か」によって規定された美学に沿って、コールの音楽は構築されてはいるものの、当初はカッコ良いと思った物をそのまま出すだけで、ただの二番煎じになってしまっているわけですね。
そこに、自分の周囲の音という、彼しか経験し得ないエッセンスが加わることで、彼の美学に沿った形で、これまでの楽曲が進化したということです。
ここに、自分の色で勝負ができるようになったという意味での成長が見られます。
自然音を聞く もう一つの意味
さらに私は、コールの成長のきっかけとなった自然音を聞くという行為は、もう一つ象徴的な意味があると感じています。
その意味は「社会との接点を持ち始めたということ」だと解釈しています。
なぜなら、自然音は自分の周囲にある音であり、社会とは自分の周囲とも言えるからです。
そのため、自分の周囲にある音である自然音を認識するという行為は、自己の周囲を取り巻く社会を認識したのと同義のように感じます。少なくとも私にとってはそう思えてくるのです。
何か行動を起こす時、自分の思いと社会が求めるものとが一致したときに、その行動は価値を見出されるし、継続していくことが可能だと考えた時、終盤でのコールの音楽が観衆に受け入れられたというのは、社会との接点を意識できたからこその成果だったのでしょう。
映画から現実世界へのフィードバック
上記で、自然音を聞くという行為から、「自分の色の抽出」と「社会との接点の獲得」の2点が成長になっていると説明しました。
このように、これまで自分の想像の中だけでしか生きていなかった者が、社会という自分の周囲の存在をはっきりと認識し、それを取り込んで行く様を成長として描く本作の姿勢は、私にとってとても好ましいものでした。
しかしながら本作で私が感じた、「自分のこれまでと社会との接点を意識するようになって起こした行動は、多くの人に認められる」ということを、私自身は日頃から意識できてないなぁと思わされてしまったのも事実。
映画を見て思うところがあったのなら、現実にもフィードバックしていこうかと。
若者の後悔とその落とし前
コールが(金銭的な)成功を追い求めるあまり、取ってしまった行動に対する落とし前があるというのも、若者の成長を描く姿勢として素晴らしかったです。
彼が悪いっていうか、他人の不幸で金を稼ごうとする汚い大人が悪いんですけど、家を買い叩くシーンですね。
この行動はコールにとって、一種トラウマになりかねないほどのショックを与えるわけで、これによって成功とはどんな方法でも金を稼ぐことにあらずということを痛感しているんですね。
で、これの落とし前を彼がどうつけるかなんですが、シビれましたね。
ラストのアディダスの箱。観客は確実に、何が中に入っているかはわかっているので、箱だけを映すという省略した描写にもグッときました。
『ウィー・アー・ユア・フレンズ』というタイトルが秀逸
「我々は君の友達」ってことですな。
実際にあるEDMの楽曲タイトルが元ネタのようです。
作品のテーマ的にも友情の要素はあるので、意味通りの解釈でも問題はなさそう。
でも個人的には、単に友人との友情の話だけを表しているんじゃない気もしています。
上述の成長描写の解釈からの流れでもありますが、自然音によって「しるし」に気がつけたということから、つまり、自然音のような自分の周囲=社会は敵ではなく友達なんだよという意味も込められているのではないか。
・・なんて思ったりもしました。
最後に
ザックシリーズの単独主演作というわけでしたが、どうですかね。
個人的にはザック自身の魅力は特に感じなかったのが惜しいところです。
彼が脇を固めた時の輝きっていうのは、普通は単独主演もできるザックが、ほぼ全裸になったりゲロ吐いたりしてる助演ならではのお得感なのかもしれないなぁ。
本日はこれまで。
それではみなさんご機嫌よう。
過去のザックシリーズはこちら。
他にはこんな記事も書いてます。