2時間余りの幸福

わずか2時間で幸せな気持ちにしてくれる「映画」について。

映画『マザー!』母親の気持ちで解釈【ネタバレ】

今回は『マザー!』の感想というか僕なりの理解です。

日本での公開が決定していたのが、突如中止になったということで話題になった作品でもあります。Amazonプライム・ビデオで観ました。

がっつりネタバレしてる上、約9000字の超大作です、ご注意を。

観た後ポカーンとした方とかに是非読んでいただきたい。

 

ポスター画像

(画像引用元:マザー! : 作品情報 - 映画.com

 

公式HP:

paramount.nbcuni.co.jp

 

 

あらすじ

郊外にある一軒家。妊婦の妻と夫が穏やかな暮らしを送っていた夜、家に不審な訪問者が訪れる。翌日も次々と現れる謎の訪問者たち。妻は不安と恐怖を募らせる中、夫はそんな怪しげな連中を快く招き入れてしまう。 しかし、訪問者たちの行動は次第にエスカレートし、常軌を逸した事件が起こり…。

(引用元:映画『マザー!』DVD公式サイト|パラマウント

 

予告編

youtu.be

 

感想

取っ付きにくさ満点です。その分解釈のしがいはありましたが。

解釈してて感じたのは、ダーレン・アロノフスキー監督の知性ですね。

微に入り細に入り、色んな意味を込めてそうな作りに感服です。

たまにはエンターテイメント性のない作品もいいじゃないですか。

ライトに見るなら、出てくる嫌な奴らにいちいち憤りながら怒りの声をあげてやだみを堪能しましょう。後半はひたすらポカーンですけどね。

 

登場人物

本作は登場人物に固有名詞がなく、文章にするのに不都合なので、役名と演者をここで説明しておきます。

 

母(mother):ジェニファー・ローレンス

家事をこなしながら「彼」と住む家を修理するのが日課。行き詰まっている「彼」の仕事がうまく行くことを願い、気を遣って生活している。

 

彼(Him):ハビエル・バルデム

詩人。「母」の夫。

 

男(man):エド・ハリス

ある夜遅くに突然「彼」の家を訪問する。「彼」や「母」とは初対面。

 

女(woman):ミシェル・ファイファー

「男」の妻。

 

前半:やだみが凄い、神経系スリラー

嫌な感じの奴ばっか、勝手に招き入れてるんじゃねーよ!

・・・という「母」の心の叫びがビンビンに伝わってきて不憫になっていくのが物語の前半部。

不気味な訪問者が訪ねてくることを皮切りに、見ているこちらの神経を逆なでするようにどんどん嫌な感じが募っていく物語が展開されます。

出てくるやつらの仕草や言い草が本当に本当に嫌で、嫌なんだけどそのやだみがサイコー!

しばしの間、「母」の気持ちになって、登場人物ごとにそのやだみを挙げていきます。

 

「彼」

朝起きたら隣にいないから心配してたのに、いきなり真後ろに現れて驚かさないでよ!

 

うまくいってない仕事の話になった途端に拗ねます?直前までキスしてたのに、『臭いだろ』とかいって避けないでよ。しかもシャワー浴びてくるとか言って逃げたけど、今まさに散歩するのに外出しようとしてたところじゃん!

 

なんで不気味な訪問者を簡単に家に招き入れるわけ?挙句ずっと居ていいなどと言うのよ!

 

なんか不安だから夫のあなたには味方でいて欲しいのに客のことばかりで、全く私に寄り添ってくれないじゃない!

 

そもそも何でもかんでも相談なしに進めんな!

 

「男」

迷惑はかけられないと言うくせ、しっかりお世話になろうとしているとかどういうこと?

 

こちらとしては出したくない紅茶の準備をしているにも関わらず、先に酒を飲み始めるとはこれ如何に?

 

屋内で吸うなという意味で気を使って「タバコは吸いません」と言ったのに、返答が「賢明だな」とか頭湧いてんのか?

 

改めて屋内で吸わないでと意思表示したら、火の付いたタバコを玄関先に投げ捨てるってどういう神経してんだよ!火事になったらどうすんだよ!こちとら火事についてはトラウマあんだぞ(夫が)!

 

あーあ、あんだけ言ったにもかかわらず、部屋の中で吸ってるよ。(中指立てて大声で)Fxxk!

 

こちらとしては貴様の分まで用意したくもない朝食を作っている最中に、まさかの来客に面食らってるうちに、せっかくの料理が焦げてダメになるとか、ほんとなんなのもう。つーかさ、そもそもなんで自分の妻を呼んでるんだよ!

 

ていうか、もうお前なんなの?身分偽ってんじゃねーよ!

 

「女」

勝手にフライパン触って、火傷してんじゃねーよ!ちゃんと触るなって言ったよ?勝手に触って怪我しておいて、なぜこちらが気を遣わないといけないのか。

 

頼んでもいないグラス持ってくんなよ!こちとら部屋の壁を塗ってるんだよ!忙しいんだよ!水滴ついたらどうすんだよ!

しかも頼んでもいないレモネードを勝手に持って来ておいて言うセリフが「飲まないの?」とか厚かましいにもほどがあるわ!

 

初対面で「子供は欲しくないの?」とか聞く奴にろくな奴はいませーん。

 

私が熱心に修理している家を軽んじるような暴言を吐いてんじゃねーよ!!

→「建て直した方が早い」「二人で何かを創る事(=子作り)に比べたら家なんてただの背景」

 

てかさー、勝手に人の家の台所でレモネード作っておいて、散らかしたままとかどういう教育を受けたらそうなるわけ?

 

ソファーに座るやいなや座面に土足を乗っけてんじゃねーよ!埃よけカバーをかけてあるんだろ、てめーの目は節穴か。しかもカバーの剥がし方も雑だしよー!

 

本当は滞在されたくないの分かってる?で、百歩譲って洗濯機貸してやるってのに、私たちのまだ濡れている洗い立ての洗濯物を勝手に床に出すとか、どういう神経してんだよ!クソが!

 

性生活について尋ねてんじゃねーよ!確認だけど、初対面だからな?やっぱりテメーはろくな奴じゃねーわ!ババアのくせにセクシーランジェリーで誘惑するのよとか宣ってるけど、大きなお世話すぎるからな。

 

余計なことばっか言うくせ、「年上の彼が若くて魅力的な妻とセックスをしないのは歳のせいかそれとも…」と変に言いよどんでんじゃねーよ!気になってしょうがないだろ。あとそれ、気を遣って言うのやめたんじゃないだろ!

 

私の夫の大切なものを壊した挙句の言い草、反芻してみ?貴様らどうかしてるのわかるから。

→女「謝ったでしょ」男「彼女に逆らうな」女「どうしろと?」男「いいから黙って」

しかも間髪を容れず別室でヤってるとか、なんなのもう!ここ人の家だってわかってんの?わかってねーよな?(中指立てて大声で)Fxxk!

 

・・・以上、ジェニファー・ローレンス演じる「母」の気持ちに成り代わって代弁してみました。

ミシェル・ファイファーは普段は美しいおばさまだけど、本作では厚化粧で若作りしてる品の無いババアにしか見えないから役者って素敵!

 

訪問者は続く、そして懐妊へ。

まぁこんな感じで最悪な訪問者達なんですよ。しかもこれに留まらず、どんどん訪問者は増えていき、ますますひどいことになるんです。

老夫婦の息子兄弟が来たと思ったら、兄貴が弟を殺すわ、そしたらこの家で喪に服す会を開き始めるわ、服喪の会の参列者たちが好き勝手振る舞うわ、そのおかげで家中水浸しになるわ。もう散々です。

色々あった後、「母」は念願叶って懐妊したことを悟ります。ここまでが前半部。

 

後半:キリスト教を中心とした宗教にまつわる人類史をたどるファンタジー

突如舞い降りたインスピレーション

「母」の懐妊の知らせを受けた「彼」は、突如としてインスピレーションが湧き始め、これまで全く捗っていなかった創作活動が再開されます。その姿を見て嬉しくなった「母」は創作活動の邪魔をしないよう、再び家のメンテナンスに取り掛かります。

それからしばらく経ったある日、「彼」は遂に詩を書き上げます。

この詩が持つ意味については後述します。

 

狂信的な人々の愚かさが象徴する宗教への批判

「彼」が詩を書き上げたことで、ファンたちが大勢押しかけ、再び家は訪問者達に蹂躙されます。「彼」に群がったり、家中のものを盗んで行くようになり、熱狂的を通り越して狂信的な様相を呈し始めるます。やがて暴徒と化した群衆は争い始め、まるで家の中が戦場のようになっていきます。

混乱の最中、「母」男児を出産しますが、その子は「彼」のファンたちにより祭り上げられる過程で命を落としてしまいます。

これら一連のシーンで繰り広げられるのは、宗教の始まり=信者の誕生から、信仰の激化、狂信的な信者同士の争いと次第に拡大する戦争という、まさに人類が宗教と辿って来た歴史そのものと言っていいでしょう。我々は「母」を通じて、その人類史をひとときの出来事としてファンタジックに体験することになりますが、私はそこに製作者の宗教に対する批判的な態度を感じました。

なぜ、批判的な態度かと言うと、「彼」を崇拝する様はあまりに行き過ぎていて愚かしく、「詩人が分け与えよと言った」から家のものをもらって行くという訪問者達の言うシェアは略奪にしか見えないからです。愚衆の行き過ぎた振る舞いを描写することで、盲目的な信仰に対して批判的な目線を向けているわけですね。

さらに、赤ん坊が亡くなってからは、教義や儀式など宗教そのものに対して批判しているようにも思います。

例えば、「母」の産んだ子は明らかに神の子として扱われているわけですが、【神の子イエスの死は人類にとって必要である】とする教義も、我が子を殺された母親視点から描写することで、母親にとっては到底理解できない考え方として観客に見せつけていたり、死んだ子供の肉を分け与えれた群衆がそれを食べているといったカニバリズム描写で、キリスト教特有のミサにおけるパンといった宗教的儀式に対して、冷静に考えたらこれどうかしているよね?というような視点を持ち込んでいます。

 

最終盤での宗教の肯定に見る、ダーレン・アロノフスキーの愛憎入り混じった宗教観

宗教否定だけじゃない

前段までで、宗教を批判的に描いていると書いてましたが、どうやらそれだけじゃないようです。 終いには、宗教を肯定しているような描写が見られました。それは神との信頼関係の回復によって救済を得るというモチーフで語られています。

神との信頼関係

映画の終盤で、「母」が彼に「あなたは何なの」と問いかけると「”私は私”だ」と答えるシーンがあります。

これは旧約聖書出エジプト記からの引用で、イスラエルの民を救うよう神から告げられたモーセが、イスラエルの民に対してあなた=神をどう説明すれば良いかと問いかけた際の神の言葉とされています。

宗教学的には、この「”私は私”だ」とは、自らの不遇な状況に対する絶望から神などいないと思っているイスラエルの民が再び神と繋がるための言葉と考えられています。

どういうことかというと、繋がりや結びつきにおいて根底にあるのは信頼関係という考え方です。通常「誰?」という問いに対し「私だ」で通じるのは信頼のおける相手のみです。ですから、この場合イスラエルの民は神への信頼・絆が忘れ去られている状態ですが、ここにおいては神の側から「(遠い昔にあなたがたが信じていた)私だ」といって、信頼関係の回復を呼びかけているという構図です。

イスラエルの民と神の関係性との符合

この神との信頼関係の回復を『マザー!』の作中での状況に照らし合わせてみると、そのまま「母」が「彼」への信頼を回復するという構図で理解することができます。「彼」に尽くし散々な目に遭い「彼」からの愛情を感じられず絶望している「母」イスラエルの民です。そして「”私は私”だ」と言っている「彼」は神なのは言わずもがなですが、他にも「彼」以外の登場人物の役名が全て小文字である中で”Him”だけが頭文字が大文字になっていることも「彼」の神性の強調と言えるでしょう。

イスラエルの民が神との信頼関係の回復によって救済されたのと同様に、本作でのこのシーンは「母」にとっても「彼」への信頼を回復し、救済が与えられた瞬間であると考えることができます。

絶望的な状況下でこそ、神への信頼により救済を与えられるという描写からは、これまでの宗教に対する批判的な態度とは異なり、宗教や信仰への肯定的な態度が現れているように感じます。

こうした宗教の否定も肯定も行うあたりに、本作の監督ダーレン・アロノフスキーの愛憎入り混じった宗教観が透けて見えてきます。 

 

そもそも初めからキリスト教をモチーフにしていた

話が前後しますが、本作を見ていたときは、生まれ落ちた赤ん坊が神の子のように扱われているところで、ようやく「あーこれ、キリスト教のモチーフで話を進めてるのかー」と気がつきました。

そして、それまでのシーンについて考えてみると、そういえば最初からそうだななんてことになるわけです。どういうことかというと、本作の物語展開は、主に旧約聖書のエピソードに当てはめられるということです。登場順ではなく、気がつきやすい順に挙げてみます。

「男」と「女」の息子兄弟

カインとアベル

兄カインは弟アベルだけが父の恩寵を受けていることに腹を立て、アベルを殺してしまう。カインは人類初の殺人者となるというエピソードからですね。

ちなみにこの兄弟を演じているドーナル・グリーソンとブライアン・グリーソンは実の兄弟らしく、初めて知りました。ていうか、ブライアンの方は初めて見た。

ドーナル・グリーソンは今作みたいなイっちゃってる演技が良いんですよねー。トム・クルーズ先輩の『バリー・シール』でも良いキレ演技してました。

「男」と「女」

アダムとイブ

カインとアベルに気がつくと、こちらも気がつきやすいです。

言いつけを守らず、触ってはいけないとされた「彼」のクリスタルに触れ、あまつさえ壊してしまうのは、禁断の果実のエピソードを下敷きにしていると思われます。

服喪の会で「彼」の家に集まる人々

失礼極まりない好き勝手な振る舞いは人類の堕落を表しているようです。

水浸しになる家

好き勝手な振る舞いをし続ける人類を大洪水によって一掃しようとしたエピソードを象徴していると思われます。

 

後半は新約聖書のモチーフも出てくる

「彼」の詩

彼が作り上げる詩は新約聖書のメタファー。新約とはイエスによって神との契約が更新されたとされる考え方による言葉のため、本作で「母」が神の子を懐胎した途端に「彼」のインスピレーションが湧き、書き上げたこととの関連から推察。

また「彼」が詩人なのは、言葉を扱う職業としての必然性から来ており、ここでも神性が強調されています。【はじめに言葉ありき】は”世界のあらゆるものは言葉で成っている”という意味ですが、その世界の創造主たる神は言葉を自由に操る存在であるため、詩人という職業は「彼」の神性を強調しているものと思われます。

赤ん坊が産まれてすぐに届く贈り物

これは東方三賢者のエピソードかと思います。届くものの内容は違うけど。

 

「母」とは何だったか

「母」=家

「母」が産んだ子は明らかに神の子として扱われていることから当初は聖母マリアのモチーフかと思いましたが、売女などと呼ばれて愚衆から激しく殴打される上、役名も”mother”で小文字、終いにはループで別人になる訳でどうやら違ってそう。

そう思ってたら、「彼」から「君は家だ」と言われるんですよね。

 

家とは何だったか

家=楽園

「母」は物語前半での「女」とのやりとりで「(この家を)”楽園”にしたいの」と言っています。楽園といえば思い浮かぶのがエデンの園

家=地球

また、後半の展開では、人類が経験してきた様々な出来事が起こるのがこの家です。

言い換えるなら、地球上で発生した様々な出来事がこの家で起こっているということですから、家=地球と考える事もできます。

楽園=地球

このように家は楽園であり、地球でもあるということになりますが、どういうことでしょうか?

私の解釈では、広大な宇宙で人類が生存できる奇跡的な環境を有する地球こそ楽園であるということです。

環境破壊への警鐘

さらに仮説を進めると本作では家を楽園=地球として示唆しているわけですから、家に対して行われることは、地球に対しての人類の振る舞いと考えてみても良さそうです。

こう考えると、訪問者達によって盗まれる家具など家の中のものは、人類によって浪費される地球上の資源の象徴であり、訪問者の愚かしい行動により家が破壊されていく描写は、地球環境を破壊する人類の愚かしさを物語っているようです。

そして、本作において「母」と家が一体であり、家=楽園=地球であるなら、最後の燃える家は、環境破壊が原因となり引き起こされる天変地異のメタファーと言えるかもしれません。個人的には「お前ら、そんな馬鹿なことばっかしてると、地球ぶっ壊れちゃうよ?」とでも言いたげな監督の表情が浮かんできます。そう言えば、地球を指して「母なる大地」なんていう言い方もしますね。

 

冒頭と非常に酷似したシーンで終わるラスト

復元される家

「母」は「彼」に対し「あなたを満たせなかったのね」と言います。すると「彼」は「満たせるものはない。だから創造する」と答えます。何を創造するか、それはおそらく地球です。神である「彼」は、地球である家を復元するのです。神を満たせない人類を廃し、地球をリセットして再度創造するということでしょう。

クリスタル=生きる希望=愛

「母」からの愛を確かめた上で「彼」は「母」の心臓からクリスタルを手に入れます。

劇中何度か登場したのこのクリスタルについては前半で、「彼」が「生きる希望」だと「男」に語っていました。

セリフにある通り、家が焼けた後で「母」が唯一残せたのは愛ですから、クリスタルは、前述の生きる希望であるとともに、愛そのものだということになるかと思います。

人類にとっての生きる希望

ここで疑問なのは、クリスタル=生きる希望=愛が誰にとってのものなのかということです。

それはおそらく、再度創造された地球上の人類に対してではないかと考えられます。

クリスタルを台座に据えることで家が復元されていることから、クリスタルが創造にとって必要なものであることがわかります。創造にはクリスタル=生きる希望が必要ということになります。裏を返せば、生きる希望があるから創造できるとも言えます。

そして、地球の創造は何度も行われているはずです。というのは、「彼」によるクリスタルの説明と、本作の冒頭とラストシーンが酷似していることの2点で推察する事ができるからです。順に説明します。

まず、「彼」がどうクリスタルを説明しているかというと、物語の前半で「男」に「母」からもらったものではないと説明しています。その一方で、物語後半では「母」からクリスタルを取り出しているわけです。

次に、シーンの酷似性についてですが、ほぼ同じ復元される家の描写ですが、それぞれのシーンの最後でベッドに映し出される女性については、冒頭はジェニファー・ローレンスが演じる「母」で、ラストは別人となっています。

これらのことが示すのは、循環構造による創造の繰り返しです。以下のような流れが繰り返し起こっているということです。

・「彼」が焼け跡からクリスタルを見つけ、家を復元する。

「母」は家を修理するが、訪問者にクリスタルは破壊され、家はめちゃくちゃにされる。

「母」が家に火を放つ。

→「彼」が焼け跡の「母」からクリスタルを取り出す。

→「彼」がクリスタルによって家を復元する。

→復元された家には新しい「母」がいる。この時点での「母」は既にあるクリスタルを与えた「母」ではない。

→新しい「母」も家を修理する(だろう)

このような循環構造によって創造は何度も行われているのだと解釈できます。

神は満たされないとわかっていながら、地球の創造を何度も行っています。逆に人類の側からすれば、神を満たすことは決してできないので、そのままではいずれリセットされてしまいます。それにもかかわらず、神は創造を行い、人類は生きていく必要がある。このことに意味があるとするなら、希望を持たねばなりません。先に、生きる希望があるから創造ができると言いました、その希望こそ、本作ではクリスタルが象徴する愛なのです。

こう考えると、クリスタルが破壊されてしまうシーンは、人類にとっての愛が失われたシーンという風にも考えられますね。再度創造した世界で、愛を失わずにいられたら、もしかしたら人類がより良い存在になっているのかもしれません。

 

その他の雑感

うまくいかない仕事のことを話題にすると、途端に不機嫌になる「彼」

ステレオタイプな芸術家ならではの気難しさを発揮して、超めんどくさい。

何が嫌かって、自分もこういうところあるからー。。。

→この辺りのアーティストならではの気難しさをについては、『マイ・ライフ・ディレクティッド・バイ・ニコラス・ウィンディング・レフン』を思い出すなー。

こちらの作品は『ドライブ』『ネオン・デーモン』などの監督でおなじみレフンの撮影に密着したドキュメンタリーで、レフンの奥さんがカメラを回してます。

その中で、奥さんに当たり散らす感じとか拗ねてる感じが収められたりしているのが、似てるなと。

 

懐胎している母親が数千年単位での人類史を短時間のうちに経験する。

設定が『ドグラ・マグラ』っぽい。『ドグラ・マグラ』は夢野久作の小説。胎児が母体の中で夢を見ていて、その夢というのが有史以来の人類史っていうプロット。

 

ちょっとわからなかったこと

「母」が嫌なもの・憎いものを隠す描写:ライターと下着で2回出てくる意図は?

「弟」を殺した「兄」のセリフ:「置いてきぼりか?わかってるな。幸運を祈る」

 

最後に

本作同様、この記事も取っ付きにくい感じに仕上がってしまいました。

思いついたこと全部書いてみたつもりなので、超長文になりましたが、最後まで読んで下さった方がいらしたら大変感謝です。

 

本日はこれまで。 

それではみなさんご機嫌よう。

 

 

 

取っ付きやすい記事も書いてます!

 

 

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