映画『THE GUILTY ギルティ』感想 それは音で形作られる世界
『THE GUILTY ギルティ』を観てきた感想です。
画像引用元:THE GUILTY ギルティ : 場面カット - 映画.com
結構ここ数年のポスタービジュアルの中でも特に好感の持てる感じで好きでした。
公式HP:
観たいと思った理由
ラジオ関係者のプッシュ
普段から好きでよく聞いている伊集院光さんとかアトロクの宇多丸さんとかのラジオで紹介されていたのがきっかけですね。
音で何かを伝える、受け取るということでラジオ関係者の琴線に触れてるところに興味を持ちました。
限定的なシチュエーションものである
単純にこの手のジャンルが好きだってのもあります。
鑑賞した劇場
TOHOシネマズ日本橋(全9スクリーン)
スクリーン9(全143席:席数5番目、スクリーンサイズ5番目)
3月1日金曜日の21:30開始の回で観ました。
※この日は1月26日から続いた営業停止明け初日でしたが、スクリーン1〜5はまだクローズのままでした。
客入り
満席でした。ファーストデイというのもありますが、評判も良かったので納得です。
あらすじ
緊急通報指令室のオペレーターであるアスガー・ホルム(ヤコブ・セーダーグレン)は、ある事件をきっかけに警察官としての一線を退き、交通事故による緊急搬送を遠隔手配するなど、些細な事件に応対する日々が続いていた。そんなある日、一本の通報を受ける。それは今まさに誘拐されているという女性自身からの通報だった。彼に与えられた事件解決の手段は”電話”だけ。車の発車音、女性の怯える声、犯人の息遣い・・・。微かに聞こえる音だけを手がかりに、“見えない”事件を解決することはできるのか―。
予告編
感想(ネタバレなし)
限定的なシチュエーションが生む、普通の映画とは異なるアプローチがグッド
主人公のアスガーの視点から見た通話でのみ話が進んでいきます。
そのため、電話の向こうがどうなっているかはわからず、相手の発した言葉からこちらが情景を想像するしかないです。
このように、発せられた言葉によって観客が想像する世界が現れたり広がったりする感覚は非常に落語的だなとも思います。
映画の持ち味は本来であれば、画面に描写することでセリフを省略したり、カットを割ることで場面や時間を飛び越えることが出来る点にありますから、通常の映画とは真逆のアプローチをしていることになります。
ですから、普段余り映画を見ないという人にも意外とおすすめできます。
主役がデヴィッド・ボウイに似てる
アスガー・ホルム役のヤコブ・セーダーグレンさんの横顔がどことなくボウイに似てます。
感想(ネタバレあり)
本作は本当にネタバレなしで見てもらった方が良いと思います。
構わないという方だけ読み進みていただければと。
ここからネタバレ↓
言葉が発せられ世界が形作られる
<6歳9ヶ月の女の子マチルダちゃんは両親不在の家で、赤ん坊の弟オリバーとたった二人で親の帰りを心細く待っている。>
観客は画面にこそ映らないものの、その情景を想像しているところに、ある人物が放ったたった一言でマチルダの手は血まみれになり、オリバーは無残な遺体と化してしまいます。
画面には映ってないのに、一瞬にして観客が想像する情景を切り替えてしまう、この切れ味の鋭さが素晴らしかった。余りの鋭さに、想像した画がひどく残酷なものを想起してしまい、とても胃が痛くなりました。
オリバーの殺害状況、そしてそれを目にしてしまったマチルダを思うと不憫でなりません。
ここでは本当に直感的に我が子を今以上に大事にせねばと感じさせられました。
女は庇護の対象?
<泣いている女が助けを求めてくる。どうやら横には男がいる。>
このような状況を頭に描くとき、女が被害者、男が加害者という図式がすぐに思い浮かびます。
実は開示されている情報をきちんと考えると、上記のようには必ずしも言えないのです。しかしそれでも劇中のアスガーはそうだと思い込んでしまうし、私自身もそうでした。
この思い込みによって物語は走り続けていくことになるわけです。
なぜ、そう思い込んでしまったか、それは女は男よりか弱く、守られるべきものだという前提条件があったからでしょう。
この前提はさらに、「女は男よりか弱い」という文脈からもう一つの思い込みを私たちに植えつけます。力を行使するのは男の方であるという思い込みを。
例えば、DV=ドメスティック・バイオレンスという言葉から想起されるのは配偶者や子供に暴力を振るう男の姿、なんて方は少なくないのではないでしょうか。私はそうでした。
文章を読んでしまえば、これらの前提は偏見以外の何物でもないというのはすぐに理解できます。しかし、それにもかかわらず偏見を持っていること自体に気がつくのは難しいです。
(ちなみに超余談ですが、数年前に大ヒットした『アナと雪の女王』は、女性が女性を相互に助けるという展開で、『白雪姫』以来の王子様に助けてもらうプリンセスというディズニーの古典的なテンプレから脱却したという意味において、大変にエポックメイキングな作品だったことが本記事を書いているうちに思い出されました。)
偏見は無くせない
見終えた後私はそんな風に感じています。
それでも劇中のアスガーのように無意識に偏見による思い込みをしないように、自分がある部分において偏見を持っていることを自覚的になることが大切なような気がしました。
意識的であれば、偏見を持ったまま剝き身で相手に接してしまう状況を回避できるかもしれないという希望があるからです。
自分の中の偏見に気づくための装置として本作は秀作だったと思います。
善意の偏見と悪意の偏見
アスガーような善意に端を発する偏見以外に、誰かを貶めようとする悪意の偏見もあります。
よりタチの悪いのはどちらかでしょうか。
私は前者の方がキツイです。
後者であれば、自分にその悪意が向けられている場合、関わらず避ける事がこちらが取れる選択肢に入ります。
しかし、善意を持った相手の場合、それを拒むということはなかなかしないでしょうから相手の偏見に巻き込まれていくことになります。
今作で言えば、助けたいという思いが招く悲惨な事態がそれに当たります。
アスガーがイーベンを助けたかった想いと、イーベンがオリバーを助けたかった想いが全く不幸な形でリンクしていく描写では、作劇上の手法としてのうまさを感じながらも、その不幸さに青ざめる気持ちでした。
ネタバレここまで↑
最後に
劇場の照明が点いた後も、しばらく立ち上がるのを躊躇うほど、見終えた後に頭を抱えてしまいました。ズシリとくるとは正にこのこと。
同日にこれとは真逆の超絶ポップでエポックメイキングな作品だったスパイダーバースも見たのですが、そちらの感想はまた別の機会にでも。
本日はこれまで。
それではみなさんご機嫌よう。
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